第一回東北ボランティア(20110428~0504)活動報告
1日目(04/29)
28日の24時頃神戸を出発.西宮~北陸道,磐越道を経由して石巻市,河南インターを降りる.この時点で13時頃.
僅かな高低差で全く見える被害の状況が変わる.周辺を散策してみると,牡鹿半島に向かうにつれ営業再開していない店舗がめだつ,我々が訪れたセブンイレブンは24時間営業であるが,品揃えはまだまだというところである.
品揃えの薄いセブンイレブン
次に,ICをおりてすぐのイオンへ.駐車場はひどく混んでいて,中に入ると茨木のイオンと何ら変わらない光景だった.しかし,客の中にはマスクをしている
もの,していないものがおり,顔つきの深刻さも違うように見られた.これは,震災による被害の差であると思われる.被害の少ない人はいつも通りの日常の延
長戦上でショッピングを楽しんでおり,大きい人は非日常(この時点で避難生活が日常化していたかもしれないが)から逃れるように,この消費天国に逃げ込ん
でいるように思われた.
IC近くのイオンは大阪とかわらない賑わいがあった
ここから牡鹿半島鮎川浜鬼形にある市役所,キャンプサイトへ.半島の湾毎に集落全体が流されていた.文字通り集落全体が流されており,ショッキングな光景
が広がっていた.元が住宅であったか,畑であったかの判断ができないぐらいで,全てが流されているので逆にビジュアルにはモノの多い石巻市内よりもましに
思われる.また,海からの高低差がきついので,被害範囲の海からの距離というのはあまり長くないように思われる.
集落ごと流された風景
被害の線引きというのも残酷なもので,わずかな高低差で助かったところ,助からなかったところがある.津波が達していたか,達していなかったか.加えて,恐らく津波が来たときには満潮であり,そこでもわずかに津波の高さが大きくなったのであろう.
写真上部の少し高いところに建つ住宅は無事のようである
東大チームと合流,その後今回ボランティアの手配をして下さった遠藤さんと集合.この時点で17:30程度であったので,就寝の準備を始める,
この惨状をみると,何を持って復興と言えるのかわからなくなってくる.元通りにしても戻ってこない人も多いだろうし,ましてや新規で居住したい人なんてほとんどいないだろう.
2日目(04/30)
起床後,東大チーム,神戸チームごちゃ混ぜにした2チームに分かれて作業.
私がいたチームは先ず漁の網をほどいてまとめる作業を始めた.しかし,1時間ほど経ったころ,後ほど日本財団が重機で引き上げるとの連絡を受け作業をやめる(ちなみに,我々が6人で1時間程度かかった作業量を5分で終えたとのこと).
ここでは情報の伝達も完全でなく,他団体との連絡も不十分で作業が被ったりしているようである.また,やはり重機の力は大きく,人の手でしかできないこと,重機を使った方が絶対的に楽な作業の棲み分けも考えるべきであると思う.
次は,被害の少ない個人宅で使えそうな家具の避難の作業.2Fからタンス,ベッド等を運び出す.
昼ご飯はココスで炊き出しを横目にパンを食す,ここでもやはり住民のよりどころとなる炊き出しの場所はコンビニエンスストアであり,ショッピングモール,
コンビニエンスストアが緊急時に果たす役割は甚大であるように思われる.ちなみに,阪神大震災の際はダイエーが物流を促して検討していたようだ.
この日の作業は住人の顔が見える作業で,お話を伺うことも多々あり,今回の活動の意図に沿った活動ができた.
この村は主に漁業で成り立っており,船の保険が下りてもその金を元に生活するのがやっとで,仕事を再会するにはまだまだきつそうである.また,ここに原発
問題もオーバーラップしてきて,夏になるにつれて風向きが逆になり福島から宮城方面に吹いてくるようなので事態は深刻である.ここには文字通り家をなく
し,仕事道具をなくし,職を失った人がたくさんいる.
それでも前向きに生きようと言う意思がひしひしと伝わってきて,逆に元気を頂く.
しかし,10人の程度の人の力では相対的に作業は進んでいないような気もして,無力感に襲われる.
その後,希望者で河北IC付近の道の駅「上品の郷」でお風呂.道中,石巻市街地を通るが,ここは海から高低差が緩やかで被災面積が大きいこと,ものが多いのでビジュアルに被害の深刻さが訴えられてくることが挙げられる.
面的な被害の様相をもつ石巻の海沿い近く
対して,牡鹿半島の集落は本当に何も残っていない状況で,元あった光景を知らないと,事態の深刻さが想像しにくい.
なにもなくなった半島では時間の概念が存在していないような気がする.陽が昇り,落ちる.それだけである.テーマパークのような時間が流れている.石巻市街地にはまだ時間の概念が残っているような気がした.
風呂場はボランティアの人達で洗い場まで長蛇の列.身体を洗い,心身が洗われる.風呂場には意外と外国人も多い.
その後,北海道から炊き出しをしにきた人からBBQをごちそうになる.この状況でもみんなで笑って暖かい飯を食べられるのは幸せである.ここにはパワフルな人達が集まってくる.
ボランティアメンバーでBBQを頂く
3日目(05/01)
起床後,神戸チームとトモノテ,JENの方々と杉山さん宅の片付け.
作業開始前にフォークリフトが転倒,けが人がでたようで,出発が遅れる.常に注意して行動しないと自分たちもけが人になってしまう.
今日は住宅奥の工場に散乱したものの仕分け,ゴミ出し,清掃と住宅の床板を外して泥の掃き出しなどをする.マンパワーで一気に片付いた.杉山さんは恐らく
地域でももの凄い権力を持っていて,大工を雇ったりしているので,ボランティアにくるのが当たり前と思っているような感じもする.もしくは,本当に自分の
ことだけしか考える余裕がなく,ボランティアの人達に感謝の言葉を言う余裕さえないのかもしれない.
床板を外して泥かき作業
瓦礫の仕分けが大方終わった杉山水産
途方もないような作業が残っているが,一つ一つ進めば必ず終わる.前に進めている,ということを実感するのが肝要なのではないか.
その後,一旦キャンプ場に向かい東大チーム,トモノテ中川さんに別れの挨拶をする.今回お世話になった東大チームのやん君,トモノテの中川さんには本当に感謝である,
また道の駅で体を流す.前日よりも長蛇の列ができている.お風呂後他のボランティアの方と喋ると,チリ人を含めた南米の方々と炊き出しをしていた模様.チ
リ人の参加理由は,昔チリの津波のとき日本人が助けてくれたから,ということでお返しとして参加しているようだ.南米の陽気で笑顔を絶やさず,ハキハキと
働く様子は被災者の心を癒したようだ.また,片田舎の高齢者は外国人を見るのが初めてというのも多く,それだけでもの珍しそうにしていたようである.
晩ご飯はびっくりドンキーに行こうとしたけど,5分差で閉店.向かいのcoco壱番屋へ.幸運なことにボランティアの証明があれば一人1000まで会計が
無料.ご好意に甘え,頂く.その後,気仙沼高橋工業へ.私は道中仮眠していたので割愛するが,海沿いの道は通れない箇所が多く何回も迂回したこと,南三陸
町は夜みても悲惨な状況であることを聞く.気仙沼高橋工業付近のコンビニに着後,ぱんぱんのマーチで睡眠
4日目(05/02)
寝られたのかどうなのか微妙なまま起床,被災前の高橋工業の映像を見てから昼前に高橋工業到着.この高橋工業とは我々の研究室の先生が一緒に仕事をしてい
る会社である.この周辺も石巻市街地同様被害がすごく面的で,また松林ごと持っていかれたなど,津波の勢いも大きかったのかなと思わせる.
面的な被害の気仙沼南部
高校のU字形の後者の間に切り妻の実習棟が見られたが,その建物は3件先ほどから流されてきたようだ.
校舎の間にある小屋は3件手前から流れて行った
また,この付近には魚の冷凍倉庫が多くあり,腐った魚がそこかしこにあって,異臭を放っている.
異臭を放つ腐った魚
被災地の中でも場所によって雰囲気は俄然異なる.これは元あった町の密度,建物の種類,地形から来るものであると思う.高橋工業前は,元々埋め立て地だったのかな?という印象.
そこから一反高橋社長の家であり現在仮事務所へ.先生の事務所からの救援物資である水等を渡し,作業着に着替えて工場跡へ.作業内容としては使える機材を
仮事務所に運搬.まとめてあった道具をトラックへ運び出し,埋もれている道具を探すことで,結構土ぼこりも舞い,力仕事であった.
仕分けられた道具を運搬
晩ご飯は用意されていたのでご飯,そば,ビール,つまみを頂く,小野寺さんと社長さんからいろいろと示唆に富む言葉を頂く.
「もうなにもできない学生ボランティアはいらない.10人分の飯を作ったこともないやつが炊き出しなんてできるはずがない」
「学生がボランティアにくるぐらいなら,バイトしてお金ためてそれを送ってほしい.」
「自己完結している自衛隊は凄い.テント張ります,なんて言ってもどこに建てるの?」
「炊き出しにきてコンセントどこですか,ってなんだよ」
「ハイヒールで被災地に来る人もいる」
「今欲しいのは次のまちづくりの指針.安藤さんみたいに力がある人に示してもらいたい.それが間違っていてもかまわない.生きる希望を」
「結局今,建築家ができることってなにもない.また次の段階でいるんでしょう」
「今こっちは生活するだけで精一杯.自己完結できない人達がきても邪魔なだけ」
「素人が被災地に来ても邪魔.専門性を持った人じゃないと.こっちが指図するのも手間だし」
「有名な建築家もゼネコンと繋がってる.結局きれいごと言ってるけど派閥とか作っちゃってる.」
「原発の被害すごいけど,あそこでつくられる電力は東京のやつらが使う電力.」
「気仙沼はまだ水道が通っていない.今火事が起きたら消火することもできない.」
このような話を聞いてると自分たちも自己完結でやってきたつもりだったけど,そうでもなく,何しに来ているんだろう?と思う.
寝床は仮事務所の床を借りられた.4日ぶりに脚を伸ばして寝る.寝床まで借りて,ご飯,ビールも頂いて本当に邪魔をしてしまった.
5日目(05/03)
少々寝過ごしちゃって7時起きのつもりが8時半に起床.本当に迷惑だ.朝ご飯まで頂いてしまった.
社長ご夫妻は昔ながらの,新渡戸稲造の「武士道」の世界の夫婦で,奥さんも家事をすることにプライドを持っているようだ.
その後は昨日の作業の続きで,工場後で使える道具の発掘.ロープや滑車など,溜った泥をテコで掃き出して捜索.この作業も重機があれば一瞬ではないか?と思ってしまう.
泥の中から使える道具の発掘
とりあえず発掘した道具をまとめて,お昼に社長宅へ.またまたお昼ご飯を頂いてしまう.
その後は松本氏を運転手要員として寝ておかして工場跡へ薪割り.これも意外と体力を使う.
薪割り作業中
工場長から,今の若者はのこぎりの使い方もしらないし,道具を作ったり,メンテもできない.知識としてあっても経験していないから使いモンにならない,な
ど聞く.換言すると,大学生は知識が偏りすぎていると.しかし,現在膨大な情報があるので,それは取捨選択して一人一人が専門的な知識を深めていけばいい
のでは?とも思う.このような状態にほっぽりだされたら生きていけないが.
3時頃社長宅へ戻り,身支度.別れをかわし,気仙沼市街地,港の方へ.
被害のひどいところは車両は入れなかったが,港の方は黒こげの船などが見られた.
黒こげになった船舶
しかし,建物は鉄筋コンクリートや鉄骨造などが多いので建物まるまるなくなっているのはあまり見られなかった.また,地盤沈下により道路が冠水しているところが多々あった.
建物駆体は残る気仙沼港付近.道路は冠水している
帰りは三陸道で河南ICまで戻り,またまたcoco壱番屋でカレーを食し,帰路につく.
今回の旅行で感じたことは,上から高圧的にする復興ではなく,下からのボトムアップ的な復興が大事だということ.住民の意見をそのまま丸呑みにするのもダ
メだが,用はそこと折り合いをつけていくことだろう.観光気分で写真をとっているように見える人達に腹をたてる被災者,というのがいて,その気持ちには同
意するが,その写真を撮っていた人達がどのようにその写真を利用するのかで変わってくる.ジャーナリストでない素人が,と思うだろうが我々の用にボトム
アップに周りを啓発していく団体は必ず重要になってくると思われる.傷口に痛い消毒液を塗るようなものである.ここから復興するにはまた,傷つくことも必
然なのである.
また,高橋社長に諭されたことだが,建築ができることを考え直さなければならない.建築家は建築の可能性を過大評価しているのでは?もう一度冷静に,検挙
に客観的に考察する必要があるように思われる.単純に考えれば建築家の職能とは建てること,それに尽きるハズである.そこから領域を広げ,納得して,して
もらうには入念な下準備がいることを感じた.
また,現在は最低限のライフラインが復旧しつつあるが,1ヶ月程度は電気,水,ガスがない生活.今回体感したことだが,薪を一つ集めるにも大変なことであ
る.今回我々は5日間で疲弊し尽くしたが被災者たちは56日目の生活.我々の想像もつかないほどの疲労が溜っているだろう.私たちは今回肉体的疲労と若干
の精神的疲労が溜っているわけだが,被災者は精神的疲労がもっと溜っている.精神的なケア,療養が必要であろう.
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